帝國博物学協会
下総國
小弓城
 所在地 千葉県千葉市中央区南生実町字古城
 交通機関 京成千原線 学園前駅下車 徒歩15分
 別  名 南生実城/小弓御所
 略  歴 小弓城は、大治元(1126)年頃、千葉氏によって築かれたといわれている。
この頃の千葉氏は、猪鼻城に居城していたが、南部に一族で重臣の原氏を配することで、安定を図ったと考えられる。
康正元(1455)年、千葉宗家胤直と馬加康胤が戦った際、時の城主原胤房が康胤に味方し、千葉家滅亡に協力している。
文明11(1479)年、胤房は91歳で卒したが、嫡男胤隆がついで、小弓城主となった。
永正6(1509)年には、連歌師宗長が、当時の城主原胤高に招かれたと記されている。
永正14(1517)年、真里谷城主、真里谷信勝は、古河公方高基の弟で奥州を流浪していた空然和尚を呼び寄せて還俗させ、足利左馬佐義明と名乗らせた。
信勝は、庁南武田宗信・里見義通と同盟を結ぶと、同年10月14日、義明を奉じて小弓城に押し寄せて攻略した。胤隆は自刃して果て、一族は四散した。
これによって、原氏は小弓城を追われて、代わって義明が城主となり、小弓城を小弓御所と名付けて居城した。
義明は、これ以後「小弓御所」「小弓公方」と呼ばれるようになる。
天文7(1538)年、里見義尭の支援を受けた義明は、第一次国府台合戦で北条氏綱と戦った。義明は、この戦いに敗れて敗死し、里見氏も上総に撤退したため、城主不在の小弓城には、再び原氏が復帰した。
入城した原胤清は、北半里の場所に築いた生実城に居城を移した。
 現  況 小弓城は、南生実台地の南西端を主郭としており、現在は墓地になっている。
城址碑・案内板は、墓地の前に立っており、主郭縁辺には土塁が残されている。城は、この主郭を中心に、悌郭式の縄張りになっている。
城址は台地全体に広がっており、南と西側は水田(当時は湿地と考えられる)、東は大百池、北は支谷によって守られている。北の埋蔵文化調査センターの裏には空掘遺構が残されており、また土塁遺構も認められるが、立入り禁止の看板がいたるところに立っている。
城址主郭の小字を古城といい、周囲には東堀・城出下など、城を示す小字が残されている。
大手口

大手口

虎口状のクランク

大手脇の土塁

虎口状のクランク

大手口遠望
外郭

中鼻郭西土塁

北端の切岸

北側空掘遺構

北側空掘遺構

北端の土塁

北端の土塁上

北端の切岸

北門跡

北門跡

郭内(北門内)

郭内(字森台)

郭内
(字森台)

郭内
(字森台)

八剣社脇虎口

八剣社脇虎口

八剣社拝殿

八剣社境内の
土塁

八剣社裏

西側の腰郭
(字台)

西側の土塁
主郭

主郭西空掘跡

主郭北空掘

主郭内

主郭内

城址碑と案内板

城址碑

主郭土塁

主郭土塁

主郭切岸

主郭遠望
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