帝國博物学協会
下総國
生実城
 所在地 千葉県千葉市中央区生実町
 交通機関 京成千原線 学園前駅下車 徒歩15分
 別  名 北小弓城/生実陣屋/森川藩陣屋
 略  歴 天文7(1538)年、第一次国府台合戦後にこの地に復帰した原胤清が、里見方に対する拠点として、新たに築城し、居城したとされている。
永禄4(1561)年、里見勢は反抗戦を実施、家臣正木時茂が原胤貞が守る臼井城を攻略した。胤貞は、この生実城で防戦を図るが遂に落城して、胤貞は北条方を頼って落ち延びた。
永禄7(1564)年、第二次国府台合戦では、胤貞は北条方として戦い、再度生実城を奪還、更に南下すると、臼井城をも取り戻した。
翌8年、上杉謙信が関東に出兵してくると、勢いを増した里見勢は、正木時茂を主将として上杉軍と協力、臼井城を包囲した。
貞胤と胤富は、この猛攻に耐え、上杉・里見両軍は、撤退に追い込むことに成功した。
元亀2(1571)年、里見方の攻撃を受けた原胤栄は、生実城を守りきる事ができず、臼井城に退去、以後臼井城を居城とした。
天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原の陣では、胤栄は北条方に与しており、豊臣方の酒井家次により攻撃を受けて、原胤栄は討たれた。これによって、生実城は廃城となった。
なお、北条氏の滅亡後、関東には徳川家康が入封。江戸城を居城に定めると、生実は西郷家員に与えられた。
 現  況 生実城は、東から続く舌状台地に築城されており、城址主郭は本城公園から北西方面に置かれていた。本城公園には、北小弓城跡の案内板が立てられている。
主郭付近は角栄団地となっており、遺構は完全に消滅している。
二曲輪は、北側に辛うじて切岸らしきものが残されている。
三曲輪は、生実神社西側にあったとされており、ここが生実陣屋の跡とされている。三曲輪東側の空掘が、生実神社西側に残されている。
この生実神社と学園前駅の中間付近に、「北小弓城大手口跡」と記された石碑と、その裏側に大規模な土塁が残されている。
この土塁は、県道を挟んで南側の住宅背後に伸びており、台地縁まで残っている。
なお、大手口石碑では「北小弓城」、生実神社前の案内板には「生実城(北小弓城)」、境内の石碑は「生實城」、本城公園の案内板には「北小弓城(生実城)」となっており、表記が統一されていないのは、いかがなものであろうかと考えた次第である。
(市の立てた生実神社前の案内板と本城公園の案内板ぐらいは、統一した方がよいのでは?と、提起する次第です。)
外郭

生実城大手口
土塁

北小弓城大手口
跡碑

生実城大手口
郭外側土塁

生実城大手口
郭内側土塁

北側より大手口
土塁を望む

台地北端

県道南側土塁

県道南側土塁

台地南端切岸
生実神社

生実城と生実藩
陣屋跡案内板

生実神社境内

生実神社東側
土塁

生実神社西側
土塁

生実神社東側
土塁

生実神社西側
土塁

旧生實城空掘

境内の井戸

生実神社東側
土塁
三曲輪

生実陣屋
二曲輪

ニ曲輪北端
切岸
主郭

北小弓城跡
案内板

本城公園

主郭跡付近

主郭跡付近

風呂口付近
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